ことばのまえ Sou NAKAYAMA

Sou NAKAYAMA

  • 「記憶を嗅いで海へ還る犬の話」

    2012.09.03

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    羊の群れを連れて
    スーツ姿の男が日比谷線に乗り込んできた

    帰宅で混雑する地下鉄の車内で
    羊たちは大人しく群れをなし恵比寿方面へ向かった

    群れから外れた羊はスーツ姿の羊飼いに寄り添う犬に
    噛まれて痛い思いをしてしまうので

    六本木駅で停車しているときも誘惑に負けることもなく
    吊り広告を静かに眺めたりして大人しく群れをなした

    広尾駅で数頭の羊がウールを着飾った
    高所得者たちに買われて降りて行き
    売れ残ってざわついた羊たちは犬に噛まれた

    犬は羊を噛むことを嫌った
    でも羊を噛まないとスーツ姿の羊飼いに叱られるので
    たとえ地下鉄の車内でも自分の役割を全うした

    スーツ姿の男は中目黒駅で降り羊と犬を
    ガードレールに駐輪している一台一台の自転車に結び
    高所得者から得たお金でお洒落な会話が飛び交う
    お洒落なカフェでお洒落なものを飲むことにした

    男を待っていると土砂降りの雨が降ってきた
    犬は瞬く間に水位が上昇した目黒川に吞み込まれ
    結ばれた自転車のタイヤにつかまりぷかぷかと浮かびながら
    むかし住んでいた美しい島の集落を思い出していた

    おおきな津波に襲われたその島はもう
    この世界のどこにもなかったけれど犬は
    島を流れる気持ちのいい風や空から落ちる透明な水や
    海のなかに沈み途切れた生き物たちの生命の記憶を川のなかに嗅いだ

    お洒落なものを飲み干し酔い潰れた男が終電を逃す頃
    整然と群れをなした羊が一匹また一匹と
    夢の中へ消えて行きガードレールから解けた犬は

    溢れた川の記憶を辿り
    深い海へと沈んだ生命の源へ還っていった